マセラティの男。


僕が21歳の頃、神戸の中心街からほど近いアパートに住んでいた。急な坂道に建つ3階建ての建物で、その中でもとりわけ陽当りが悪い北側の1階の角部屋ということもあり、相場よりもずいぶん安かった。せっかく付いていたお洒落な出窓も、15センチ先にそそり立つコンクリートの壁に遮られ、単なる物置と化していた。

ただ、神戸の中心街の山の手の閑静な住宅地ということもあり、周辺には重厚な高級感を漂わせたマンションや、洋館と呼べる一戸建てが立ち並び、当時貧乏学生だった僕は、えらく場違いな気分になったものだ。

そんな僕の住むアパートの、通りを挟んだ向かい側。丁度一階の僕の部屋の窓から見えるところに、半地下が駐車場になっているマンションが建っており、その駐車場の一角に、いつも鏡のように磨き上げられた真紅のマセラティ222SEが停まっていた。黒いグリルが精悍さを際立たせ、美しい木目のダッシュボードには象徴的なアーモンド型のアナログ時計がはめ込まれていて、艶やかさと、匂い立つ男のダンディズムを放つそのイタリアンレッドの2ドアクーペを、絶対に届かない夢の対象として、諦めと妬みが入り交じるため息をつきながら、いつも眺めていた。


前日より五月雨が続く休日の朝。駐車場で、そのマセラティを磨く男を見かけた。彼はそれこそ撫でるように、真紅のボンネットにワックスを塗り込んでいた。

なるほど、あの輝きはこうした日々の努力によって支えられているのかと、感心しながら美しいマセラティ222SEを磨く姿を、見るとはなしに眺めていた。

ひとしきり磨き終えた彼は数歩下がり、艶かしい輝きを増した愛車に満足気にうなずくと、おもむろに運転席のドアをあけてマセラティに乗り込みエンジンをかけた。半地下の駐車場に、SOHC V6 ツインターボの野太い咆哮がこだまする。

ゆっくりと進むマセラティが半地下の駐車場のゆるいスロープを上り、屋根をぬけだす。雨の日特有の優しい光に照らし出された、磨き上げたばかりの真紅のボディに、玉のように雨のしずくが降り落ち、弾けて流れる。

僕は、美しいと心から思った。

おそらく彼は、雨だからこそ、マセラティを磨いたのだろう。その磨き上げた車体を滑るように流れる雨粒を見るために。汚れることを分かった上で、それでも磨くことを厭わない彼のマセラティに対する愛情を、感じずにはいられなかった。

そんな光景を見つめつつ、若かりし僕はおぼろげながら、いつか歳を重ねてあんな男になりたいと思った。


☆☆☆



先週末、朝に洗車したばかりのR100GSに跨り、秋の紅葉を求めて山にでかけた。途中、舗装された林道に流れる湧き水が、流れ出た泥とまじり茶色く行く手を遮っていた。一瞬のためらい。アクセルを戻し、停車しようした刹那、先のマセラティの記憶がふと蘇り、そのままアクセルを開けて、派手に泥水を跳ね上げながら突っ切った。


いつか見た、あのマセラティの彼のように、はたして僕はなれているだろうか。


・・・否。 (泣)


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